うさぎ式読書日記210611

なんか忙しいような忙しくないような、そんな毎日だ。

ただ、朝弁当を作ってから仕事行って、スーパー寄って帰ってきて、食材の足を気にしながらクラシルやクックパッドで作り方を調べて夕飯を作って食べる、みたいなことだけでなんとなく毎日が充実してきているような気はするけど、それは他の人が日常的にしていることができているだけで勝手に達成感を感じている、という可能性も高いしなあ、とか思ったり。

久しぶりに味噌汁を作り出したけれど全然おいしくなくってなんでだろうと思って母に話したら鰹節とかいりこが麦茶みたいにパックに入ったものをくれた。それで作ったら味噌汁が劇的においしくなったので、化調塩分無添加っていう触れ込みのイオンで買った顆粒だしの素が全然駄目だったんだなあって思った。

じゃがいもと玉ねぎの味噌汁を今日も食べるのを楽しみにしていたのに、帰って温めていたら異変を感じて見たら表面に白いカビのようなものが張っていた。

同時に、2日前に作って大成功したかぼちゃの煮物の鍋の蓋を開けてみると同じように白くなっていて、とても落ち込んでしまった。いや、暑かったけどなあ、って思う。

1日2日程度なら大丈夫だと侮っていたことをすごく反省しながら捨て、やる気が減退してしまったのでカップラーメンとご飯と納豆で夕飯とした。

でも、自炊を再開してから間食が減り、インスタント食品もあるけどほとんど食べることがなくなった。財布からのお金の減りもとても減って、これで体重も減っててくれたら最高なのにと思ったりする。


大掃除の成果もあって部屋の中が相当快適になり、緊急事態ってこともあるから帰りにどこかに寄ることも叶わないしということで、すぐ家に帰る日も増えた。

でもたまに外に出て車を運転していたりすると、ああそうか、自分はどこに行ってもいいし、どんな人間になったっていいんだよなあって突然思ったりすることがある。

アジアなどの海外をバックパックした体験を漫画に描いてTwitterで発表していたさかなかなすかさんという人を数年前に知り、そのあととても好きになってほとんど全てを読んでいるのだけど、その人の漫画は、いつも読んでいると自分の身体の外側が広い自由とつながってるんだなあって思えてくる。

それは場所のことだけじゃなくて、自分ができないと思いこんでいるようなこともだったりもして、なんでそんなことを突然言っているのかっていうことについては理由があるんだけど、そういった自分自身がいろんなことから自由になるってことについては、今後もうちょっと書いてみたいなあと思う。

まあでもさ、こんな世情の中だからって、こんなもんだとかしょうがないだとか絶対思いたくないって考えたりしてる。

よもやそんなことを思ったり表現したりすることそのものが禁じられることはないだろうと思うけれど、この前に森泉岳土がコミカライズした「オーウェルの『一九八四年』」を読みながら、自由を希望し続けること自体が現代ではもうレジスタンスなのかもしれないなって思った。

森泉岳土の作品は読み手であるこちらとの距離感が(日本の漫画においては)本当に独特なのだけど、「村上春樹の『蛍』」とともに一冊になったこの単行本はどちらもものすごくハマっていた。


やさぐれたご飯を食べてから、何気なく本棚から取った室井大資の「秋津」を読み返す。

室井大資の中でも大好きな漫画で、ダメ漫画家の秋津が息子のいらかや(妻は家を出ていった)同業者などと繰り広げる自虐的なドタバタコメディ、みたいな感じなんだけど、改めて読み返すと、えーこれって大人の青春漫画だったんだな、って思ってちょっと切ない感じさえ抱くのだった。

困った人ばかりが絡み合うギャグ系の漫画なのだけど、その上に薄い層のようになって物語全体を冷静になって見つめている視線が存在するような気がする。

そんなものがギャグ漫画に必要なのかどうかって話はあるんだけど、そのことによって大袈裟に言うなら人間愛みたいなものを感じてしまうんだからちょっとだけ永島慎二を思い出したりして、やっぱり室井大資はすごいなあって思うのだった。



still,still walking / さかなかなすか
村上春樹の「螢」・オーウェルの「一九八四年」 / 森泉岳土
秋津(全2巻) / 室井大資

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