昨日は夜にM-1グランプリを見て、そこそこ楽しんだ。
毎年なにかしら言ってる気がするけど、M-1に人生賭けてるというような話を散々聞かされて、その上で漫才を見るというのはまさにカイジで鉄骨渡りをしている債務者を笑いながら見ている金持ち、みたいな構図だなあと思う。
それでもなにかしら職場などで話題になることが多いので億劫だけど見なくちゃなあと思ってみて、結果まあ面白い、みたいなのまでが毎年の流れになってきてるような気がする。
ネタの中には美川憲一に男ですか女ですかと聞くようなやつがあって、そういうのを見てると単純にモヤモヤして楽しめない、っていう感覚があった。結局ポリコレとかフェミニストがとかそんなことよりも先に、もう今時点でそんなイジりって普通に楽しめないんだな、ってことを思ったりしたのだった。
ここ数日間は結構寒くなってきてて、M-1見たりクリスマスソングがラジオでかかりまくっていたり、職場でももらったカレンダーをプールして各部署に一斉に配るみたいな恒例行事もあったりと、年末らしいことが続いている。
なのになんで今年は1年が終わるという感慨がこんなに薄いんだろう。ほんと、困惑するくらいだ。
今年は仕事でも個人でも、これまでの人生で一番なんじゃないかというくらい人と会って話をしてっていう機会が多くて、始まったり変わったりしていったような年だった。
これまでもなにかしら自分で考えてそれなりにやってきたつもりだったけど、そういったことがもっと大局的に見たら淀んでいたんじゃないかと思えるくらいだ。
自分の中では全然うまくいかなくて落ち込むことばかりで、実際に苦しいことも多々あったけれど、そういったことも含めて大きな流れに押し流されていったような、なにかが終わってなにかが始まろうとしているような日々で、もしかしたら人生の岐路にあるのかもしれないなあとか大げさにも思ったりするんだった。
今年できたことで一番大きかったのは、住んでいるアパートの部屋を根本的に片付けることに成功したことだった。
そうして壁全面に造り付けた本棚の本を今日の朝ぼんやりと眺めていて、子供の頃から何回引っ越ししても家の中には本棚が何本もあって、そこに本が詰め込まれていたことを思い出した。
そこから勝手に寺山修司とか谷川俊太郎とか阿佐田哲也とか永島慎二とか手塚治虫とかライ麦畑とか綿の国星とか、読みやすいものから読んでいったんだよなあって。
父が自死してその借金を精算するために相続放棄をしたのだけれど、相続放棄だから父の持ち物のほとんどはそのまま住んでいた場所に残していかなくちゃいけなかった。それでも僕は、父が特に大事にしていそうな本たちをこっそりとダンボール数箱に入れて運び出した。
今住んでいるアパートの今年作り直した本棚には、かつて家族で住んでいたときにあった、ジャン・ジュネ全集や田川建三や道浦母都子や中南米文学、そしてマルクス・エンゲルス全集までが僕の買った漫画や本と混ざりあって収まっている。
今までなんにも思うことなんてなかったんだけど、ああそうか、この本棚は自分そのものなんだなって、なんていうかやけに感傷的に、そう思ったんだった。
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