うさぎ式読書日記240204

今日は休みだったのでいつもより遅くまで寝ていた。

この頃いつもそうなのだけど、とても具体的な夢を見る。

今朝は誰かと結婚することになる夢だった。目が覚めてから思い出してもその相手は自分の知っている誰でもなかったのに、夢の中ではついにそうなってしまったか、なんて思っていた。

今はあまりメンタルが良くなくて、特にひどいさみしさと、自分がすること全てがとても馬鹿馬鹿しく下らないことだと思ってしまうことが辛い。

さみしいと殊更に他人を求めるようなことをしてしまい、そのことの情けなさでまた深く落ち込んでしまう。

だから本当ならばなにもしたくないしなにも口に出したくないけれど、社会の中で生きている以上はそうも言ってもいられなかったりする。そしてやっぱり、こういった状況をどうにかしようとして、落ち着いていられなくなる。

こういった時、とても書きたいという気持ちばかりがあるのに、書いた途端に本当につまらないことをなんで得意げに披瀝してるんだという気になってしまう。

人の気持ちだって自分中心に動いているはずもなく、自分とは全く関係ない理由で機嫌が悪い日もあればいい日もあるわけだと思う。でもその、たまたま優しくなかった一時を取り上げて、もう自分は駄目だ、全ての人間に嫌われた、とか本気で思ったりする。


今日は午前中はほぼ寝ていて、午後からは仕事に着ていくシャツなどの洗濯とか、洗い物とか掃除とか、ホームセンターとスーパーに買い出しに行ったりをした。

夜になって、この前本屋で何気に手にして買った折田洋次郎の漫画「落花生」を読む。

生徒や同僚の信頼も厚い高校教師だった主人公は、あることがきっかけで仕事と妻と、妻が妊娠していた子供を失ってしまう。

物語のアウトラインはそう珍しいような話じゃない。それなのにただ、そんな境遇なんかじゃないというのに自分を重ね合わせて読んでしまった。

自分とほぼ同年齢の、なにもない状態で社会にとり残されてしまったその男の孤独とか見通しのない状態とかにものすごく共感した。

この前仕事の帰り道のパチンコ屋の前を通り過ぎていたときに、ああ自分はずっとこうやって生きていくのかな、と思って急激にさみしくなったことがあった。でもそれが、一緒にいてくれる誰かがいれば、とかいうような話とは全然違う場所にある感情だっていうことを、他人にどう説明したらわかってくれるんだろう、と思いながらまたそのことに絶望したりしたんだった。

「落花生」の最大の救いは、主人公が突然今の状態を全部失ってからも、ずっと誠実でいたということだ。


なんか全然関係ないことなんだけど、この前泊まった宿舎に聖書が置いてあって、それを気まぐれに読み始めたら面白くなったのでスマホでずっと読んでいる。

昔に聖書をちゃんと読もうと思ってバカみたいに創世記から読んで挫折したことがあったんだけど、今回は読み方を調べたりしてマルコ伝から読み始めたら、とても面白かった。

イエスの物語なんて壮大なネタバレ物語なんだけど、それでも例えば頭に香油を注ぐということがなにを意味してるんだろうとか、そんなことを調べながらずっと読んでいった。

イエスが捕まった時12人の弟子はみんな逃げ出してしまうけれど、ペテロはやっぱり戻ってきて遠くからイエスが裁判にかけられるところを見ていた。

夜明けの鶏が鳴いた時、群衆の人々から「あんた、イエスと一緒にいたよね」って聞かれて、「知らない」って嘘をつく。

3回目の嘘をついた時、また鶏が鳴いて、イエスが「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」って自分に言っていたことが本当だったんだって思って、ペテロはいきなり泣き出してしまう。その部分を読みながら、まるでそれが自分のことのように思っていた。


それで漫画の話に戻るんだけど、当たり前、なのかもしれないけれど、失ったものがその人に戻ってくることはないんだと思う。

ただそんな中で、主人公はただ誠実に、人とのつながりを大切にして生きようとする。

どう生きたっていい人生の中で、報われることがあるのかもわからない残りの人生までもそうやって生きていこうとする姿は、信仰に近いものがあるような気がした。

そのことが哀しいことだけではなく、もしかしたら美しいことなのかもしれないとか思ったりもして、聖書を読んだからなのか歳をとったからなのか、よくわからなかったりするんだった。

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