7月6日、オウム真理教事件関係の死刑囚が、次々と処刑されていくニュースが流れてきた。そして、最終的に7名の死刑が同日に執行された。
自分の周りの人たちがそうだったように、このことは、自分をひたすらに重たく辛い気持ちにさせた。
この前の北大阪地震の時に本棚が横倒しになって、ついでに読みかけていたり積んでいる本の山も崩れて、意外な本が手前にやってきて、その時に手に取って読み始めていたのが、約20年前、麻原彰晃が逮捕された直後に刊行された宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」だった。
タイミングがいい、というのはとても嫌な見方だなあと思いながらも、続きを読んだ。
この本「終わりなき日常を生きろ」で宮台真司が指摘しているのは、思ったよりもわかりやすいことで、さらにそれは、出版から23年が経った今でも通用するんじゃないかという問題意識だった。
「終わりなき日常」というのは、もう輝かしい未来なんてないと分かってきた時代の中で、冴えない自分の日常を死ぬまで繰り返していかなくてはいけないっていう、そんな時代のことだ。
私たちはそんなキツくて耐え難い永遠の「終わらない日常」を生きていくか、それともすべてを変えてくれるハルマゲドンのような出来事や存在を望んでいく。
そして、(この部分の接続が一番弱いような気がしたんだけど)、終わらない日常を堪えることができない人たちは、自分にとっての「良きこと」を求め、そのことによって「日常」を終わらせる大きな夢想を現実化させようとしてしまう、というのだ。
私たちにとっての「良きこと」を決めていたり縛りつけていた共同体が、戦後になって家族を含めて崩壊し、本当の自由を得た(「新人類」以降の)私たちに残ったのは、なにか良きことをしたいけれどなにが「良いこと」なのかわからない、という状態だった。
その「終わりなき日常」に苦しさを感じている人間たちの「さまよえる良心」が、「父」のような正しさを断言したり導いたりする存在に惹きつけられていく。
そしてオウム真理教(麻原彰晃)という存在が示した明確すぎる「正しさ」によって日常を変えることができると思った人たちは、自らが純粋にその教義を実現しようとしたのだ、という。
じゃあまず、こんな絶望的な日常が続く中で、僕らはどう生きていけばいいんだろう。
作者によれば、それは「そこそこ腐らずに『まったりと』生きていくこと」なんだという。
そして、まったりと生きられない人間のさまよえる良心をどうしたらいいんだろうかといえば、そこは今ひとつ明確にはされない。
そもそも私たちは、どんなに苦しくてもそのことを抱えながらも生きていかなくちゃいけない。
そんな中で行き所のない「良心」が生まれたとしても、それを受け止めてくれる宗教がくれる「正しさ」や「輝き」は、本当に正しいものなのだろうか。
(ただ、作者は宗教が存在する意味を否定しているわけではない。)
そういった話がある中で、僕が一番重要だと思ったのは、本の中で、物事はもっと複雑だし、単純でわかりやすいものじゃない、ということに何度も触れられているところだった。
単純な真実、単純な理由、単純な関係性、そんな物事は人間として生きるうえでほとんど有り得ない。でも、そういった明快なものに、モヤモヤを抱えた「良心」は行き場を求めてしまう。
そしてその思いが向かったのは、90年代前半にはオウム真理教や人格改造セミナーであって、この10年代においては「愛国」なのではないかと思う。
この本で作者は、その大いなる良心の行き所を示し提供する「神」の側には、純粋な良心からではなく欲にまみれた連中が多く存在すると指摘している。そして、その私欲がなくたって、その正しさは外の世界から検証されたものではないと言う。ああ、本当にそうだなあと思うのだった。
あれから20年経って、その頃に彷徨っていた私たちの思いは結局そのままだったんだろうな、と思う。
じゃあ、そんな思いをすくい上げる形を取る団体が、カルトではなく、国の権力そのものだったとしたら、一体どうなるのだろう。
本の中で宮台真司はオウム真理教について、やっていいことと悪いことを定める権力が、心のあり方や思い方についても命令することができてしまうシステム(神政政治)だと指摘しているけれど、じゃあこれが、一つのカルトではなく、国単位で起こっていることだとしたら、一体どんな結末になるというんだろう。
全然関係のない話なのかもしれないけれど、2010年台になってから、呆れ返るくらい日常のちょっとしたことを楽しむ、というような漫画が増えてきていて(そして自分も大好きなんだけど)、そんなことも、「終わらない日常」をまったりと生きるための方法なのかもしれないと思う。
それでも、報われない「良き心」をハルマゲドン的な考えで利用しようとする人間たちに対抗しうるものは、「まったりと」生きていくことなんだろうか。
こういったことに関しては、まさに今、自分たち自身が考えることであって、明確な形でもたらされることを期待することの方が、とても怖いことなんだろうなとは思う。
だからこそ、どんなに面倒くさくても世の中の複雑さや多様さと向き合っていくしか、[正しさ」がわかりやすく対象化されていくような世の中に対抗する術はないのかもしれないと、思ったりした。(う)
終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル / 宮台真司 コラム=速水由紀子 写真=吉田真啓
ちくま文庫 1404円
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