新居に移って環境が整ってきたこともあって、ここ2週間前くらいから食事を作ったり弁当を作っていったりしている。
最初は前の家から持ってきた荷物にカレールーがあったのを見つけて、まあカレーくらい作れるかなとそれだけの材料を買ってきて作ったところから始まって、それなら「違国日記」の笠町くんが作っていたという「不良の作る弁当」くらいなら自分でもできるかなと思って作って持っていって、という感じで進んでいった。
「不良の作る弁当」っていうのは、引っ越しで紛れてしまったので友人に頼んで単行本の中から探し出してもらった(何巻のどこにあったのかもわからないくらい曖昧な記憶だったのにすぐに見つけ出してくれた)画像によると、「タッパーに米と肉とブロッコリー放り込むだけ」の弁当だ。レンジで2分チンしたご飯の上に焼肉のタレで炒めたなにかの肉と茹でブロッコリーと漬け物を乗せるだけの「原始の弁当」と評された弁当だ。
いや、それでもすごいよと読んでいた当時も思っていたんだけど、思った以上に作ったときも、持って行って食べてるときも満足感が高くて、継続して作るようになった。
引っ越しで酷いくらい疲れているし、まだまだダンボールの山でやることばかりなんだけど、なぜだかぐだぐだで全てにやる気を無くしてしまうというような悪い疲れ方はしていないので、外で食べて帰ったりインスタントで済ますようなことがほとんどなくなった。
こういったことをしているとなんとなく心身ともに落ち着いてくる感じがあって、改めて、自分ってちゃんとしたくない訳じゃなかったんだな、って思う。
で、こういったことをしていると恐ろしいことは当然のようにあって、弁当を作るようになったと職場で話すと、「食堂で食べたほうがいいんじゃない? 安いしバランスもいいのに」「そんなことする前に部屋片付けた方がいいって」とか言ってこられたりする。
この頃一番辛いのはこういった呪いに満ちた言葉で、自分が少しでも前に進もうとしてやっていることを無責任にも否定しその気持ちを摘み取ろうとしてくる。実際にそんなことを言われると、自分がやっていることは馬鹿馬鹿しくてなんの意味もない自己満足だと思ってしまいたくなる。
今まではそういった言葉を聞くたびに落ち込んだり、もしかしたら一理あるのかもしれないと思って行動をやめたり縮小させたりしてきた。前回の日記に書いたように、それも自分が他人の期待に応えようとしてしまう行動の一つでもあったと思う。
そしてコンビニで買ったものを食べたり、夜もどこかのチェーン店で食べたりとかして、「男の一人暮らしじゃしょうがないよね」と言いたい人や、そこに乗っかって「”ちょっとは”自炊でもしたほうがいいんじゃない」とか言う人に対して「いやーそうですよね」と笑って返したりする。
結局はどっちにしたって他人はいつでも無責任に「いつまでもそんなんじゃ駄目だよ、うさ山さん」みたいなことを言いたいし言ってくる。そうやって長い時間をかけて自分自身の気持ちとか意向とか自尊心が削られてきたのだと最近気付いてきたりして、ああそうかこれはもうすでに戦いだったんだな、と思った。そんなことすらわかってなかったんだ、って。
考えてみれば、昔からそんなことはあって、小説を書きたいと思ってると言ったときも、高校の卒業資格を取りたいと言ったときも同じだった。
本当に怖いことだと思った。こんなことを長年受け続けながら、仮初めのセルフイメージを維持してきたなんてさ。
先週観に行ったエクソシストじゃないけど、これは悪魔のようなものとの戦いなのかもしれないなって本気で思っている。
あと今日、長嶋有の原作を6人の作家が漫画化したアンソロジー「いろんな私が本当の私」を読んだんだけど、これが予想を裏切るくらい良かった。
好きな作家ばかりだから原作つきだけど読んでみるか、という感じだったんだけど(「長嶋有漫画化計画」っていうのは知っていて、ネットで陽気婢のものとかいくつか読んだこともあったけども)、どの作家の短編も読んだあとに溜息をついてちょっと自分のこととかを考えてしまうような、本当に、いい小説を読んだあとのような深い読後感があったのでびっくりした。
原作付きの漫画っていうのは読者としての経験上、噛み合っていない部分ってのが必ずある気がするんだけど、これは各作家の面白さを原作の確かさが下支えしているようで、更にしっかりとした、面白くて重みもある作品になっているような気がした。
どれも良かったけど、米代恭ってやっぱり大好きだなとずっと思いながら読んでたし、鶴谷香央理の一見とりとめがないように見えるのに今のこの空気、といったものを確実に表現してくるところもすごいなって思ったり。
小説もちゃんと読もうって思った。
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