うさぎ式読書日記231213

引っ越しが終わったけれど、思い返してみると悪夢のようだったと言っても大げさじゃないような気がする。

10月中旬にアパートを出ていけと言われてから新居が決まるだろうかという不安、新居の契約が本当にできるのだろうか、審査が通らないのかもしれないという不安。

契約が成立して鍵をもらってからも、本当にこの大量の本や不要なものばかりの21年住んだアパートから物をすべて運び出すことができるんだろうかという不安、期間は1ヶ月くらいあったのに運んでも運んでも全く部屋の風景が変わらなかったときの絶望。

レンタカーや労組から車を借りて仕事終わりに毎日ダンボールを運び続けているのに退去の数日前になっても全く目処がつかなかったときの不安。

退去日直前の日曜日には同僚に冷蔵庫や洗濯機を運び出す手伝いをしてもらった。

部屋はとても汚く、本をダンボールに詰めるたびに紙魚が纏わりついたりする中を本当に今考えても申し訳なかったなと思う。

ただ、どうしたらいいのかわからないような部屋の状態だったこともあり、引越し業者に依頼することを諦め、全てを自分で移動させようと思って、そういった助けを借りながらも退去日の11月30日の夜遅くにとにかく荷物を全て空にすることができた。

ほぼ奇跡のようなもので、もう一生あんな目には遭いたくないと思うどころか思い出したくもない毎日だった。


退去しなければいけないと決まってからの1ヶ月半は、引越しのことしか考えていなかった。でもそれは、目前のやらなければいけないことばかりを常に考え続けていたということで、自分の過去のこととか、これから自分はどうしようどうなるんだろうといったことをほとんど考えなくて済んだ時間でもあった。

普通の人たちはこうやって人生の時間を過ごしていくものなのだろうか、とか思ったりする。そしてそれを「後ろも振り返らずに過ごしてきた人生」とかって表現したりするんだろうか。しらないけど。


そんなこの間と、そして今も思うのが、自分が考えてやっていることを否定してくる言葉や、そういったニュアンスで発せられる、「そんなやり方じゃなくてこうするべきだよ」っていうようなアドバイスっていうのが本当に自分にとっての毒や害悪であったということだったことだ。

期限がない中で自分なりにやろうとしていることを、責任も取らない他人が色々と良かれと口出ししてくるのって、特に自分にとっては本当に聞いちゃいけない言葉だった。


引っ越しをしていて、なんで自分の部屋は(レイアウトをたまに変えたとしても)どうしてこんなに物に溢れているんだろうってことが初めてわかった気がした。

それは本当に、ゴミ屋敷がどうして生まれるのかということと同じで、ああそうか、自分はすでにもうゴミ屋敷の住人だったんだな、ってわかった。

橋本治の小説「巡礼」は、そんなゴミ屋敷の住人となってしまった男性が、そこに至るまで、昭和の高度成長期から現代までの時代と、その中にあった主人公の人生を順番にひたすら描き出すことで説明していくという長編だ。

最近は、「ゴミ屋敷と言われている人の家の物も、全てその人にとっては大切な思い出なのです」とか普通に言われたりしているけれど、「巡礼」が書かれた頃にはそんな話は一般的ではなかったような気がする。

それは閑話休題として、なんで本や物を捨てられないかというと、これは昔家に来たあの人が置いていったものだ、とか、これを処分したらあの人になんで捨てたのって言われたり悲しい顔をされるかもしれない、とかいうエピソードがあらゆる物に存在していて、自分の行動を全て縛っていたんだろうと思う。そして、そんな状況に身を置きながら、それがそんなに悪いことではないと思っていた。

そうやって考えていくと、自分がなにを一番気にしながら今生きているんだろうと思ったとき、誰かにがっかりされたり失望されたり、思っていた人と違うと思われたりってことを極度に恐れているんだなということに気付いたんだった.

自分に起因することはもちろん、全く関係ないことであっても他人が失望するということをとにかくすごく恐れて、気にしてるんだなって。


そんな中で半強制的に引っ越しになって、そこで「追い出されるのは猫のせいなんだから処分したら?」とか「どうせいらないものばっかりなんだから全部捨てたらいいのに」とか「駅に近いだけでこの間取りだったら家賃高いよね」とか「うさ山さんの部屋の物は全部汚いからバルサンで消毒したほうがいいよ」とか「本は全部捨てて読み返す本だけ電子書籍で買い直したら?」とか、こういった実際にあったアドバイスの全てに当然傷つきはするんだけど、それ以上になにか自分の人生自体を全否定されているような気持ちに何故かなってしまった。

でさ、それって本当に橋本治が描いたゴミ屋敷の住人の思いと全く同じだって気付いて。

納得したりなんらかの気持ちがあったからこそ人生の中で積み上げてきた現在の状態を「ゴミ」だって他人に言われたらどうしたらいいんだろうって話で、実際に「もう死んだほうが早いのかな」とか思ったりもしたのだった。

でもそんなことを長々考えていたら、退去届を出したアパートの引っ越し期限に間に合わないのでそういったことはあまりじっくり考えないようにした。他人は自分の人生に責任なんて持ってくれない。自分の人生に自分だけで責任を取ればいいって思いながら、他人のありがたいアドバイスや「これは昔あの人にもらった洗濯機だけど……」とかいう、まあそれも他人の気持ちを想像してしまうようなことから起因する自分の感情も、そんなことを全て振り切って、捨てるものと残すものを一旦自分で決めた。

何年暮らしていても、引っ越したとしても、自分には「あの時のあれ、まだ使ってるよ」とか言いたいような気持ちが過剰にあるのだと思う。でも、自分が気にしているその人たちは、「ふーん」とか言いながらどんどん未来に向かって歩いて行ってしまう。


ただ引っ越しただけなんだけど、自分にとっては本当に大きいことだった。

誰かのために、それも本当にあるのかもわからない、多分ほとんど存在しない感情のために自分は生きていたんだってことがわかったことがとても大きくて、だからこそ自分の行動は他人が失望するかもしれないということに規定されるんじゃなくって、自分がどうしたいかによって決めていくんだっていうすごく当たり前のことを新しい住居でやり直すことができるってことはすごいことだって思ってるわけですよ。


そういえば、そんな日々の中でちょっとはいいこともあって、今年久しぶりに新号を発刊した現代詩同人「ドードー」に載せた自分の詩が「現代詩手帖」11月号の同人誌欄でとりあげられていたと同人のKさんから教えてもらった。

読むと、少し触れるというよりは結構ちゃんと読んだ上で取り上げてくれていた。どの同人誌のどの詩を取り上げるのかなんて選者の感覚でしかないと思うのだけど、全く知らない他人に読まれていたんだという事実だけでも嬉しいことだと思う。


来年は本当に、他人の言葉を意に介すことなく自分の気持ちだけを大事にしながら生きたい。それはもしかしたら人間関係よりも大事なことなんじゃないかと、今日は思っているけれど。

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