うさぎ式読書日記230702

同じような毎日をずっと送っている。

仕事に行き残業して暗くなってからバスに乗り、駅に着いて適当なものを食べてまた電車に乗って最寄り駅から歩いて帰った。

他にも、友人と電話したり、会う日だってあったのだけど、淡々と消化される日々の中に飲み込まれるようになっている。

同じことを同じように繰り返して、なにかに落ち込んで持病の心因性腹痛になったり、部屋の中で熱中症になったりということさえも毎日に回収されているような気がする。


この頃は仕事をしているか疲れてもう寝たいと思っているかどちらかで、そのどちらかではないほんの一瞬の隙間に考えていることは、愛とか人生のこととかだ。

今日は9連勤目の日曜出勤で、昼休憩の時に漫画を読んでた。

昨日たまたま気が向いて駅前の本屋に久しぶりに行って(自分の久しぶりは一週間ぶりくらいだけど)、その時になんとなく気になって手に取った「うららかひかる 津々に満つ」という漫画の1巻を読んでた。

どんな話かといえば、最愛の恋人が姿を消してから12年後、その恋人の息子だという少年が突然主人公の男の前に現れて、そして「母がなくなった際に臓器提供した人たちを訪ね歩くのをお父さんに手伝ってほしい」と言ってくる。

そして、未だに恋人のことを忘れられないおっさんと、母からもらえなかった愛を未だに求め続けている少年との旅が始まっていき、そんな中で2人は徐々に「家族」に近づいていく。

なんていうか、ものすごく面白い! ってタイプの漫画ではないんだけど、なんかすごく染み入ってしまった。


僕は昔からずっと、結婚のことがよく分からなくて、好きだという感情がどうやって結婚という制度につながっていくのか、理屈じゃなくて本当に感情の部分で全く理解ができなかった。

今になって思うのは、それって恋愛感情とか性欲とかが理解できないっていう状態と結構似ているんじゃないのかなってことだ。

いつか考えが変わるよとか、そんな人と出会っていないだけだとか、わたしのことをそれほど好きじゃないんでしょ? とか言われたりして、でも本人にとっては全くそんなことじゃない。ただ自分が単にその「状態」に置かれているだけで、ひとつひとつのことに理由があったわけじゃない。

なにかおかしいのかなとは思っていたけれど、1歳下の妹と話していてほとんど似たような感情を持っているらしいことがわかったことがあって、やっぱりそういったことって、セクシュアリティのレインボーの中の、他の人とは少し違う場所にいるってことなんじゃないかという気がしてしまっているのだった。


さっきの漫画「うららかひかる~」もそうだし、この前読んだ西炯子の「たーたん」だってそうだったし、それこそ「違国日記」だって、いきなり現れた子供という他人と家族になっていく物語だ。

「違国日記」の最終話を読んだときにものすごく泣いたんだけど、なんていうかその時も、自分はとても愛が欲しくなってるんだろうなって思った。

どの漫画も、そして「うさドロ」や他のたくさんの物語も、人生を費やすべき愛がある日突然現れるという話で、多分それは少なくない人が抱いている願望がベースになっているんだろうなと思う。

それは、自分の毎日はどうして(虚しくない/実りある)愛に費やされていないんだろうという感情だ。

そう考えたら結婚の意味くらいすぐにでもわかるようなもんだし、ある日突然与えられる子供と、計画的に授かった子供とがなんら変わりないものであることだってわかりそうなものなのになって思う。

なのに、そんなことを考えながらモヤモヤしている自分のような人間のためだけに、これらの物語があるんじゃないのかとさえ思ってしまいそうになるけれど、それは都合のいい解釈ってものかもしれない。

ただ、自分には恋愛をしていたい気持ちも残っているし、セックスだってしたい。でも今は、いや、今はではないかもしれないんだけど、愛ってものを作りたいと思っているんだと思う。

もしかしたらそれはもうすでに始まっているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

ただ、最近は仕事の帰りに街灯に照らされた道を歩きながら、そういった10年後とかその先に関するさみしさの予感と向き合いながら毎日を生きている。


あと、最近猫をまた飼い始めることになってしまった。

これが人生のうちの20年間を過ごした猫と同じように、愛に関わるような出来事なのかはまだよくわからない。

悪いことなんかじゃ全然ないんだけど、ただ、このことについては今のところ誰にもあまり、話したくないと思っている。

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